いつまで大企業で消耗してんの?

転職成功までのプロセス、転職エージェントの感想、30代での転職の苦労、キャリア感、大企業から脱出する心構え、その他諸々について書いています。 新卒で専門商社(3年)→財閥系一部上場メーカー(9年)→ベンチャー

初3連休

転職してから初の3連休。まあ、今まで15連休くらいしてたのであまり変わりがない。

田舎生活になって車2台が必須になったので、カーディーラー巡りをしている。

1台は実家から持ってきて、今は出勤用に使ってるんだけど、今後嫁専用にする予定。

もう一台は家族で遊びに行ける様にSUVかミニバンにしようと思って、ディーラー巡りをしている。

今の候補トヨタのC-HRハイブリッド、ホンダのVEZELハイブリッド、日産のX-TARILハイブリッド。各社に話を聞いたけど、ホンダが一番良さそう。

今まで車に全く興味がなかったんだけど、車選びが面白くなってきた。よかった。

自分語り17 MBA取得

前に書いたように私は学部時代は心理学を専攻して、将来は劇作家になろうと考えていた。その後、コネで社会人になった。そして、転職して経験豊富な高卒軍団にパワハラを受け、病んでしまった。今後ビジネスの世界で生きていくためには、本格的にビジネスについて勉強する必要があると考え、いろんなビジネス書を読んでいた。読むだけでは満足できなくなり、実際に経営学を学びたいと考えるようになり、MBAを取得したいと思うようになった。

ちょうど故障者リスト入りして、仕事が暇になったので本気でMBAを目指すことにした。仕事で成長できないぶん、自分で勉強して経験をアドバンテージに私を苦しめてきた、高卒パワハラ軍団に対抗するために論理で経験不足を補いたいという気持ちもあった。

MBAと言うと海外留学というイメージがあるが、国内の有数な大学がMBAコースを持っている。夜間で取得できるので、会社で働きながら取得することができる。私はこの道を選んだ。

2011年から独学で勉強を始めた。2012年の入試は試験が準備が間に合わず受からなかった。2012年は1年近く勉強して試験に臨んである大学の大学院に合格することができた。2013年に入学して、2015年に修了した。

大学院の入試に受かった時、直属の上司に許可をもらった。ほとんど残業がなかったので、仕事が終わった後すぐに会社に出て、大学院の講義を受けた。平日の6時過ぎから2コマ講義をとって、9時半くらいに終わる。終わってから、グループワークがあれば、近くのファミレスで食事をしながらクラスメイトと議論する。土曜日は朝から夜まで講義を受ける。日曜日は1日中課題に費やす。こんな生活を送るようになった。

講義と課題でハードな日々だったけど、自分で選んだ道だし、勉強するのが楽しくて全く苦に感じなかった。

大学院の1年目で単位を取りきって、2年目は修士論文の執筆がメインだった。ただひたすら自分の設定した仮説を検証する作業が続いた。こちらは強制されない分、自分で目標を決めて、PDCAを回すので自己管理が大事だった。なんとか書き上げた論文で経営学修士を取得して、MBAホルダーとなった。

MBAを取得してよかったことは、徹底的に理論を学ぶことができたこと、ケーススタディなどでロジカルに考える訓練を積んだこと、論文の執筆を通して仮説設定・検証能力を身につけることができたこと、たくさん英語の論文を読んだことで英語が上達したこと、同級生との人的ネットワークができたこと、などなど。

大学院を修了してから感じるのは、同級生とのネットワークの凄さだ。MBAに来るような人は、大手企業に勤めていて、その中でも実力があって、向上心の強い人たちで、いわゆるAクラスの人材が集まっている。その人たちと議論するだけで、勉強になるし、修了後は友達として一生付き合っていける。ゼミのメンバーで集まったりしたら、みんな大企業のエリートで、かつMBAホルダーであり、こんな集まりは滅多にないと思う。

というわけで、私のような状況に置かれた人はぜひMBAを目指すといいと思う。

MBA2年目の時に時間の余裕もできて、MBAで学んだことを実務に活かしたいと思い、第一回の転職活動期に入った。

初出社

初出社日。入社の手続きをして、職場に配属された。新入社員の時を思い出す。新年から新しい気持ちで新しい仕事に取り組めると思うと素晴らしい。

気負いすぎず仕事に慣れていこうと思う。

北国に来てから初めて朝に車に乗ったけど、凍っててどうやって出発していいのかわからなかった。とりあえず雑巾で霜を取って出発した。窓ガラスがこんな感じだった。
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今までは電車と徒歩で40分程度かかっていたけど、車で20分程度に出勤時間が短縮された。素晴らしい。

自分語り16 カウセリング後

カウンセリングは合計4回だった。最初に受けたのが2011年の5月。2回目が6月。3回目が8月。4回目が9月。部署の異動が7月。
2回目以降のカウンセリングの結果はEvernoteに記録していたので、当時のメモが残っている。

2回目のカウンセリング(1ヶ月後の面談)
・1回目の相談時より楽になっている。
・クリニックに行って薬をもらうような状況ではなさそう
※カンセラーは話を聞くだけ。クリニックは薬を処方して症状を改善する。カウンセラーで手に負えない場合=鬱病と認定される場合、はクリニックを紹介される。
・眠れなくなったり、食欲がなくなったりなど身体に変調があった場合は注意すること

3回目のカウセリング(3ヶ月後の面談)
私:仕事の負荷を減らしてもらったけど、もう少し仕事量があっても大丈夫だと思っている
カウンセラー:負荷がなさすぎるのも良くないので、ある程度仕事量があっても大丈夫だと上司に伝える。もし負荷が大きすぎると、前と同じ兆候が出てくる。例えば、周りに相談できなくて悩みを抱え込んでしまう、暗くなる、笑えなくなる、気が休まらない、など。そんな兆候が出なければ大丈夫

4回目のカウンセリング(4ヶ月後の面談・最後の面談)
私:パワハラをする人がいなくなった職場になり、新しい仕事にもチャレンジしてだいぶマシになった
カウンセラー:気遣いに感謝をすること。感謝を言葉にすること。今度同じ状況になっても経験を生かして乗り切ること。抱え込まないこと。相談すること。きつい言葉にも真意があると思うこと。

前の自分を客観的に見ることができるようになった。これはとても大事。すぐに相談したらいいとか。相談の仕方とか、力の抜き方とか。今回の経験は長い社会人生活ではいい経験になる。この経験を生かすことが大切。

こんな感じ。

まとめると、病んでたけど鬱病と診断される手前で助かった。仕事の負荷が減って、パワハラ主犯格から隔離されることでストレスは緩和されて前向きになれた。ストレスマックス時の誰にも相談できず、自分をダメだと思う、学習性無気力状態から脱する方法も学ぶことができた。これで定期カウンセリングは終了した。

その後、私は数ヶ月新しい部署で内勤の仕事をすることになった。たまには出張もあった。上司も気を使ってくれて、同じような状況にならないように負荷のある仕事はほとんど与えられなかった。

私の自己認識はパワハラさえなければ仕事は嫌ではなかった。もともと上昇志向があったし、能力もあると思っていた。問題は自分を否定する環境があるだけ。なのでパワハラを受けない環境にさえあればもっと仕事がしたいと考えるようになった。ようはストレスがなさすぎてそれがストレスになっていた。健康な人からは、何を贅沢なと思われるかもしれないけど、今までバリバリ働いてた人間が一気にやることがなくなると、それでそれは辛い。

何度かもっと仕事をしたいと上司に訴えたが、再発したら困るのでしばらくは今のままでいるように言われて、状況は変わらなかった。まあ、無理して鬱にさせるなんてことはできないから当然の判断だと、今は思うけど、その時は辛かった。

また、仕事の前線から外されることで同僚たちに一気に差をつけられてしまった感もあって、それも辛かった。

このままでは、学ぶことができなく、資料作りのための数字を弄る仕事を続けることになる。周りからはメンタルを病んで前線から脱落した病人として扱われる。これは耐えきれないと思った。

そこで私が考えたのは自分で自分を磨くことだった。その一つがMBAの取得だった。

自分語り15 カウンセリング

カウンセリングを受けろと言われたが、そこまで重症だという自覚はなかった。どうしようか考えている間に数日が過ぎた。その間もストレスは溜まって行った。

自分なりに考えてベストだと判断した選択を、直接その仕事に関係ない上司から変更しろと言われたことがあった。金曜日の夜に電話がかかってきて、いきなり頭ごなしに否定された。しかも、周りの音を聞いているとどうやら飲んで酔っ払って電話している感じがした。自分なりに考えた判断なので、外野が口を出すなと言えればよかったんだけど、その頃の私は学習性無気力状態だったので、何も言い返せずに、その決定を覆した。その決定を覆すためには多大な労力がかかった。

当時、付き合っていた現嫁と一緒にいる時にその電話がかかって来た。電話を受けた後、悶々として、不本意ながら関係者に変更のお願いの電話をしている私を見て、現嫁がとても心配してくれた。そこで、現嫁に全てを話した。会社で高卒軍団からパワハラを受けていること。ストレス検査の結果、カウンセリングを受けろとメールを受けていることなどなど。

自分の彼女や家族に、仕事場での自分の弱さや追い込まれっぷりを見せるのは、非常に恥ずかしいし悔しい。こういう状況になったことのない人はわからないと思うが。私も自分がそうなるまでわからなかったし、想像もできなかった。

とにかく嫁に全て話して、カウセリングは受けるべきだよねという話なった。次の週に、元鬱で薬を飲んでいた先輩と出張が一緒になった。この先輩とは仲が良かったので思い切って相談して見た。カウンセリングを受けろと言われていること、職場環境が限界だと思っていることなど。

先輩からのアドバイスは、とにかく直属の上司に話して、カウンセリングを受けた方が良いとのことだった。その出張の帰り、上司を呼び出して、相談した。

相談したところ、話してくれて良かったと行って、部門長に相談してくれることになった。同時に私はカウンセリングを受けることにした。

会社が契約しているカウンセリングルームに訪問してカウンセラーと面談した。カウンセラーは少し年上くらいの女性だった。カウンセラーから色々アドバイスをもらえるのかと思っていたけど、ほとんど自分が1人で話していた。仕事の内容、人間関係、何が問題なのかなど。

パワハラを受けててつらいこと。自分に自信が持てなくなっていること。組織変更があって、パワハラの主犯格が上司になることが決まっていることなどを話した。カウンセラーからのアドバイスは、上司に相談して職場環境を変えてもらって、1ヶ月後に様子を見ましょうということになった。パワハラの主犯格の部下になりたくないことは素直に伝えるべきと言われた。

カウンセリングが終わって部門長と面談をした。仕事の負荷を減らしてもらえることになった。部署異動も変更になった。パワハラ主犯格の元ではなく、相談した現上司の部署に異動することになった。現上司の部署は営業ではなく企画的な仕事だったので、たくさん持っていたお客さんを全て手放すことになった。

自分語り14 東日本大震災の影響2

土曜日の夜に東京に帰って来て、土日はネットでニュースをずっと見ていた。月曜日に出社して工場の被災が想像以上に激しいことがわかった。私は当時大手から小規模まで膨大な数のユーザーを担当していた。震災後の2、3日は被災へのお見舞いの電話が多くてまだ優しかった。問題は、震災の衝撃が落ち着いてきて、状況が判明してからだった。

私の会社はある分野で世界シェアが非常に高い素材を扱っていた。この素材の供給が止まるといろんな最終製品のラインが止まるので、動向が注目されていた。

震災後数日してわかったのは、被災状況が激しく震災前の生産能力には戻らないことだった。つまり、部品の供給が一部滞るということだ。プレスリリースをした途端、大口ユーザーから材料を確保しろという要求が殺到した。

私の元にもユーザーや代理店から問い合わせが殺到した。工場がどうなっているのか。いつから供給が再開するのか。怒涛のように問い合わせが来て、会社に乗り込んでくるお客さんもいた。地道に信頼関係を築いて来たユーザーとの関係を壊したくないので、できるだけお客さんへの質問に答えたかった。しかし、会社の上層部から工場の情報は全く降りてこなかった。担当レベルには何も教えてもらえず、とにかくユーザーを抑えろという指令だけ与えられた。まるで実弾が飛び交っている戦場に徒手空拳で放り込まれたような感じだった。お客さんからは状況を教えろという問い合わせ、それに対して上司に状況を質問しても、何の回答も帰ってこないし、状況も教えてもらえず、何とか止めろと言われる。板挟みになりストレスがマックスになった。

今思うと、会社の上層部の考え方もわからなくはない。当時は業界で動向が注目されていた。担当レベルから情報が漏れると業界が混乱するし、供給責任を果たさないということで訴訟問題になるかもしれない、株価にも影響するかもしれない、などなど、デリケートな問題があったと思う。

とはいえ、私は現場でユーザーの矢面に立たされてだいぶ精神をやられた。材料の取り合いになり、工場も本社も大混乱していた。ある日、同じ部署のパワハラ先輩がエンドユーザーに出荷できる材料の情報を渡してしまった。その情報がエンドユーザーから私が担当していた直接顧客に流れた。私は会社の指示を守って、直接顧客に情報を流さなかったので、なぜエンドユーザーには情報を流して、自分たちには情報を流さないのだと、クレームを受けた。

その話をパワハラ先輩にして状況を確認したところ、自分はそんな情報を流していない、ふざけるなと逆ギレされた。しかし、そのパワハラ先輩の名前が出ているエンドユーザーのメールを、直接顧客から転送されており、そのメールを突きつけて自白させて謝らせた。

この経験も結構衝撃的だった。私は当時31歳でそのパワハラ先輩は40代だった。高卒なので役職にはついていなかったが、いつも偉そうにしている自分より10歳以上も年上の奴が、いざとなったら嘘をついて、逆ギレして後輩を見殺しにするんだと思うと、こんな奴のパワハラに教育だと思って耐えて来たことが馬鹿らしく感じるようになった。

そんな見捨てられるような経験が積み重なったが、震災後の非常事態でお客さんのために何とか仕事をしなければいけないという使命感もあり、ストレスを感じながらも仕事に向き合っていた。ユーザー数は多くて、さらに震災後の対応が続いており超激務だった。

震災から2ヶ月くらい経って、工場も何とか稼働して、材料確保問題も落ち着いた。その時会社がやっているメンタルヘルス診断があった。ウェブで質問に答えて数日後、テストの結果が非常に悪いので一度カウンセリングを受けろとのメールが来た。