年越し
年末に長野に移住して来て、年末年始はずっと荷ほどきや生活必需品の買い出しなど、生活準備を行なっている。荷ほどきの途中で子供と遊んだり、買い物に行ったり、子供と1日中過ごすことができている。
転職していなければ普通に年越しをしていると思うと不思議な気持ちになる。新しい土地での生活に慣れることができるかが不安だったが、今のところ生活は問題なくできそう。あとは仕事がどうなるかだ。早く仕事を始めたい。
あと車を買いたいと思っている。今は実家から持って来た車を乗っているが、子供が保育園に入れたら送り迎え用にもう一台必要になる。今まで都内に住んでいたいので全く車は必要なかった。ただ固定費が増えるだけのお荷物だと思っていたが、田舎に来たら必需品なので考えが180度変わった。
で、いろんなメーカーのサイトを見て勉強して選んでいるんだけど、これがまた面白い。2月に2人目の子供が生まれるので家族が乗れて、かつ冬はスノボ、夏は山登りやキャンプに行きたいので、山の中を走れる車が欲しいなんて考えていると、ワクワクしてくるね。
休みはあと3日なので終わるまでに、部屋を完成させて新生活に備えたい。じゃあの。
自分語り13 東日本大震災の影響
パワハラで心が折れかけていたけど、なんとか仕事をしていた。その頃の私は度重なる人格否定で自分はダメな人間なんだと思うようになっていた。今思うと心理学で言うところの学習性無気力という状態だったんだと思う。
学習性無気力(学習性無力感)とは、アメリカの心理学者のマーティン・セリグマンが発見した現象。犬に警報を鳴らしてから床から電気ショックを与える実験をする。当然犬は電気ショックが来たら床から飛び上がって隣の電気ショックのない床に移動する。そのうち電気ショックを与えなくても警報を聞いた途端に犬は隣に移動するようになる。
床から移動できないようなケージに入れると、犬は当然電気ショックから逃れられない。これを何度も繰り返すと犬は警報がなっても動かず、電気ショックを甘受するようになる。こうなった犬を自分の意思で移動できるケージに入れても、電気ショックから逃げなくなる。逃げようと思えば逃げれるのに。無気力を学習したように見える。
これは人間にも当てはまる。自分の力で環境を変えられない体験を繰り返すと、人間も学習性無気力に陥り、最終的には鬱になる。余談だけど、マーティン・セリグマン博士はこの法則を逆に利用して、学習性無力感をなくすことで鬱から患者を救う方法を考案した。
私も、度重なる否定で自分は仕事のできないバカだと思うようになってしまっていた。こうなると日々仕事をするのが辛くなるし、面白くて好きだった仕事もつまらなく感じてしまう。こんな鬱々とした日々を過ごしていた。
http://tak-h.com/archives/1128
2011年の3月11日は石川県の客先に出張だった。上司とエンジニアを乗せてレンタカーを運転していた。運転しながら仕事が面白くない、辛すぎると考えていたことをよく覚えている。
午後から打ち合わせを初めて、3時ごろに終わった。打ち合中に少し揺れたように感じたが気のせいだと思った。打ち合わせを終えて車で空港に向かう途中、エンジニアが携帯電話から家に電話をしていたがなかなか繋がらない。打ち合わせ中になんども家から電話が来ていたらしい。
田舎だから電波が悪いのかな?なんて話をしながら運転していた。上司が携帯でニュースを見ていると、東京で震度5強の大きな地震があったと言うニュースが出ていた。これが電話が繋がらない原因だと考えたが、震度5強くらいでそんなになるか疑問だった。
空港につくとロビーのテレビでニュースが流れていた。カメラは空から真っ黒な津波が地面を進んで行く映像を撮影していた。これを見て初めてただ事ではないことが起こっていると理解した。
夕方の便で羽田に帰る予定だったが、地震の影響で飛行機は次々に運行延期になっていた。私たちも自分の便が延期になったので空港で待つことにした。空港では当時付き合っていた現嫁にメールをしたがすぐには返事が返ってこなかった。友達から電話が来たけど、すぐに切れてしまった。テレビでは津波の映像が流れ続けていた。
何時間か空港で待った後、全便が欠航になると言うアナウンスがあった。アナウンスを聞いて急いで空港近辺のホテルを探して電話をしたが、どこも満室だった。空港から車で40分ほどのホテルに3部屋予約を取ることができたので、そこまでタクシーで移動することにした。
ホテルに行ってから近くの居酒屋で食事をすることにした。私たちは実際の揺れをほとんど経験していないので、まだ楽観的だった。結構楽しく飲んでいた。会社に連絡をすると、会社の人たちは交通機関が動かないため帰れなくなって、会社で一晩過ごすことになったことを知った。
工場が東北にあり地震の影響を受けていて、製品が出荷できない可能性があるとの情報もあったが、今までもトラブルで納期遅延を起こすことはあったし、今回もその程度だと思っていた。むしろ、これで仕事がなくなって新しい部署に異動できれば辛い仕事や職場から逃れられてラッキー程度に考えていた。
彼女や家族とも連絡が取れて無事を確認できて安心した。その日は酔っ払ってホテルに帰って朝までテレビでニュースを見ていた。翌朝、新聞を見ながらホテルで朝食を食べた。新聞には三陸沖が壊滅だと書いてあった。壊滅って言葉をリアルで見る日が来るなんて思っていなかった。現実ではないような気がした。
空港に朝一番に戻って、飛行機の振り替えをお願いした。しかし、朝の飛行機は埋まっていて、夕方に予約が取れた。夕方まで時間があるのでレンタカーを借りて近くの温泉に入って時間を潰した。この時もまだ余裕があったんだと思う。
夕方の便で無事に羽田に戻った。羽田から自宅のある新宿までバスで帰った。震災翌日の夜の首都高はほとんど車が走っていなかった。道にも人がいなくて東京中がゴーストタウンのようだった。
家に帰るとガスが止まっていたので、ネットで調べてガスを復旧した。部屋は物が少し落ちた程度で問題はなかった。当時はテレビを持っていなかったので、ネットでニュースをずっと流していた。確かニコニコ動画でNニュースを流していたのでずっと見ていた気がする。
自分語り12 嫁と出会って結婚した話
今の嫁と出会ったのもなかなか運命的だったと思っている。転職して当時付き合っていた彼女と遠距離恋愛になって、そのうち別れてしまった。その後、寂しくなって合コンに通いだす。実家に帰ったので、周りには高校の友達が沢山いた。高校の同級生の間で合コンが流行っていて、レギュラーメンバーは年100回以上合コンをしていた。私はサブメンバーとして合コンに参戦するようになった。
非リアな生活をしていた私はどうしても合コンの空気に馴染めなくていつも失敗していた。レギュラーメンバーはイケメンでもないのに、いつも女を持ち帰っていて、この差はなんなんだと思っていた。聞いてみるとそいつは合コンを成功させるために並並ならぬ努力をしていることがわかった。例えば、合コンメンバーで共有する合コン日誌があって、そこには毎試合のメンバー、流れ、性行率、よかった点、悪かった点が事細かに記録されている。それを100回以上積み重ねていた。
私は年間100回も合コンする気力もないし、セフレより彼女が欲しかったので、数回に一回当たればいいと思っていて、あまり探求しなかった。
2年くらい合コンに出席し続けたけど、全く彼女はできなかった。いいなと思った子が何人かいたけど、全部振られた。何度も何度も合コンで振られるともうダメだという気持ちになってきた。自分は一生彼女できないと諦め始めた頃にhttp://anond.hatelabo.jp/20080728205902を見て、自分も仙人になろうと決意した。
決意して数ヶ月後、ふと以前合コンで知り合った女の子のことを思い出した。定期的にメールで連絡を取り合ってた子だ。久しぶりとメールをしたら飲みに行こうということになって、何人かで飲みに行くことになった。合コンってやつだね。そこに来たのが今の嫁。いつのまにか結婚していた。
全てを諦めて1人で生きて行こうと思った時に結婚相手に出会う。人生とはそんなものなのかもしれないねってことを書きたかった。
転職して横浜の実家に戻って来た時は2007年だった。当時はmixiが流行ってて、mixiで同級生と久しぶりに繋がっていたりしていた。私もmixiに自分の履歴を乗せていた。ある時に小学校の同級生の女の子から連絡があった。ちょうど実家に戻ったばかりで暇だったので、同級生と会うことにした。同級生は仲の良かった友達も連れて来ていて、3人で再開した。その後もちょくちょく3人であって、合コンしたりなんかもした。
その同級生の高校時代の友達の友達が今の嫁を紹介しくれた。というわけで、いろんな偶然が重ならなければ今の嫁に会ってなかったので面白いね。
mixiをしていなければ、小学校の同級生と再開していなければ、そもそも転職してなければ、出会うことはなかった。また、合コンで消耗してもう1人で生きて仙人になろうと決意しなければ、今の嫁と結婚するような付き合いができていなかったかもしれない。逆に中途半端に彼女ができてしまったら、1人になるのが怖くて別れたくなくて妥協して結婚していたかもしれない。
準備が出来た時に時期が来るんだと思う。
自分語り11 転職後
意気揚々と次の会社に移った。職場は丸の内だったので、大学時代から社会人4年目まで8年間過ごした関西を離れた。会社へは横浜の実家から通った。当時京都に学生時代から付き合っている彼女がいたけど、遠距離恋愛になってしまった。
専門商社から丸の内の財閥系一部上場企業に転職する。見事にリベンジ転職を決めた、と思っていたが、その数年後にはパワハラで鬱一歩手前まで追い込まれるので、人間万事塞翁が馬だと思う。
前職で出向していた企業はみんな一流大学を出たエリートサラリーマンで紳士的に仕事を教えてもらっていた。わからないことや相談がある時、上司や先輩に声を掛けたら真剣に教えてくれていた。転職した会社も同じように基本的に一流大学を出た人ばかり周りにいた。私もリクルーターをやった経験があるが、学歴フィルター的には、国立は旧帝大、私立は早慶しかエントリーシートが通らないような会社だった。MARCHでエントリーシートが通るのは全体の5%くらい。しかも相当優秀なやつだけ。そんなレベル。
しかし、私が配属になった部署は少し毛色が違っていた。国内営業と海外営業の2つの課があり、私は国内の営業に配属になった。海外営業はいわゆる普通の課で、大卒がローテーションで配属される。国内営業は大卒が1人もいなかった。40代前後の高卒で構成されていた。この課は特殊で20年くらい前に工場の現場から営業にコンバートされた人員で占められていた。20年前は事業の立ち上げ時期で大卒の営業をつけられなかったので、現場から営業が出されてそのまま20年近く同じメンバーでやってきた部署だった。
そこに社会人4年目の私が1人だけ配属される。これはもう完全にアウェーだった。高卒で営業として地位を作ってきたメンバーの中に投げ込まれて、私は完全にイビリの対象になった。普通なら仕事を教えてくれるんだけど、仕事を教えたら自分たちのポジションを奪われるという危機感を持っているので、簡単には教えてもらえない。また、高卒の人たちも何年もかけて今の地位を築いたので、簡単にノウハウを教えてなるものかという意識が強かった。実際、そう簡単に今のポジション渡さねーよと言われたこともある。
大卒と高卒では出世のスピードも違うので、彼らが何年もかけて登った職位に一瞬で追いついてしまい、そのうち追い抜かしてしまう。そういうわけで多分面白くなかったんだと思う。仕事は教えてもらえず、ミスするとバカじゃないの?と言われ、会議で顧客の報告をあげると、なんでこういうことを聞かないんだと、重箱の隅をつつくような質問をされる、なぜその質問が大事なのかの理由は教えてもらえない。などなど。あげるとキリがない。当時はこれが教育なんだと耐えていたけど、今思うと人格否定とパワハラの嵐だった。
今でも覚えているエピソードの一つは、今まで参入できなかった顧客に通って、最終的に年数億円の売り上げになる大きな案件を受注した時に、成果を認めてもらえず、お前が担当じゃなければもっと早くからこの案件受注できたんじゃないの?的なことを言われたことが心の傷として残っている。
とにかく、高卒の上司たちのパワハラに負けないように頑張って仕事をしたが、相手は20年近く同じ業界にいるベテランで、こちらは途中入社したばかりの若造で勝ち目はなかった。その後、この部署での生活が数年に及んで心を病んで閑職に追いやられるんだけど、その時経験ではおっさんに勝てないから、理論を勉強しようと思って大学院に通ってMBAを取得することになる。今思うと、この時パワハラを受けたおかげでMBAを取得して、自分のやりたい仕事につけたので、マイナスばかりではなかったと思うが、逆にいうと、MBA取得しちゃうほど追い込まれていたということだね。
徐々にパワハラは常態化して、心が荒んでいくことになる。入社した当時は、一部上場企業で引き抜きされかけたという自負もあり、自信に溢れていたが、徐々に俺はダメなんだとネガティブになっていくことになる。2011年の東日本大震災の影響で超多忙になり完全に心がおれるんだけど、その話はまた後ほど。