いつまで大企業で消耗してんの?

転職成功までのプロセス、転職エージェントの感想、30代での転職の苦労、キャリア感、大企業から脱出する心構え、その他諸々について書いています。 新卒で専門商社(3年)→財閥系一部上場メーカー(9年)→ベンチャー

初出社

初出社日。入社の手続きをして、職場に配属された。新入社員の時を思い出す。新年から新しい気持ちで新しい仕事に取り組めると思うと素晴らしい。

気負いすぎず仕事に慣れていこうと思う。

北国に来てから初めて朝に車に乗ったけど、凍っててどうやって出発していいのかわからなかった。とりあえず雑巾で霜を取って出発した。窓ガラスがこんな感じだった。
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今までは電車と徒歩で40分程度かかっていたけど、車で20分程度に出勤時間が短縮された。素晴らしい。

自分語り16 カウセリング後

カウンセリングは合計4回だった。最初に受けたのが2011年の5月。2回目が6月。3回目が8月。4回目が9月。部署の異動が7月。
2回目以降のカウンセリングの結果はEvernoteに記録していたので、当時のメモが残っている。

2回目のカウンセリング(1ヶ月後の面談)
・1回目の相談時より楽になっている。
・クリニックに行って薬をもらうような状況ではなさそう
※カンセラーは話を聞くだけ。クリニックは薬を処方して症状を改善する。カウンセラーで手に負えない場合=鬱病と認定される場合、はクリニックを紹介される。
・眠れなくなったり、食欲がなくなったりなど身体に変調があった場合は注意すること

3回目のカウセリング(3ヶ月後の面談)
私:仕事の負荷を減らしてもらったけど、もう少し仕事量があっても大丈夫だと思っている
カウンセラー:負荷がなさすぎるのも良くないので、ある程度仕事量があっても大丈夫だと上司に伝える。もし負荷が大きすぎると、前と同じ兆候が出てくる。例えば、周りに相談できなくて悩みを抱え込んでしまう、暗くなる、笑えなくなる、気が休まらない、など。そんな兆候が出なければ大丈夫

4回目のカウンセリング(4ヶ月後の面談・最後の面談)
私:パワハラをする人がいなくなった職場になり、新しい仕事にもチャレンジしてだいぶマシになった
カウンセラー:気遣いに感謝をすること。感謝を言葉にすること。今度同じ状況になっても経験を生かして乗り切ること。抱え込まないこと。相談すること。きつい言葉にも真意があると思うこと。

前の自分を客観的に見ることができるようになった。これはとても大事。すぐに相談したらいいとか。相談の仕方とか、力の抜き方とか。今回の経験は長い社会人生活ではいい経験になる。この経験を生かすことが大切。

こんな感じ。

まとめると、病んでたけど鬱病と診断される手前で助かった。仕事の負荷が減って、パワハラ主犯格から隔離されることでストレスは緩和されて前向きになれた。ストレスマックス時の誰にも相談できず、自分をダメだと思う、学習性無気力状態から脱する方法も学ぶことができた。これで定期カウンセリングは終了した。

その後、私は数ヶ月新しい部署で内勤の仕事をすることになった。たまには出張もあった。上司も気を使ってくれて、同じような状況にならないように負荷のある仕事はほとんど与えられなかった。

私の自己認識はパワハラさえなければ仕事は嫌ではなかった。もともと上昇志向があったし、能力もあると思っていた。問題は自分を否定する環境があるだけ。なのでパワハラを受けない環境にさえあればもっと仕事がしたいと考えるようになった。ようはストレスがなさすぎてそれがストレスになっていた。健康な人からは、何を贅沢なと思われるかもしれないけど、今までバリバリ働いてた人間が一気にやることがなくなると、それでそれは辛い。

何度かもっと仕事をしたいと上司に訴えたが、再発したら困るのでしばらくは今のままでいるように言われて、状況は変わらなかった。まあ、無理して鬱にさせるなんてことはできないから当然の判断だと、今は思うけど、その時は辛かった。

また、仕事の前線から外されることで同僚たちに一気に差をつけられてしまった感もあって、それも辛かった。

このままでは、学ぶことができなく、資料作りのための数字を弄る仕事を続けることになる。周りからはメンタルを病んで前線から脱落した病人として扱われる。これは耐えきれないと思った。

そこで私が考えたのは自分で自分を磨くことだった。その一つがMBAの取得だった。

自分語り15 カウンセリング

カウンセリングを受けろと言われたが、そこまで重症だという自覚はなかった。どうしようか考えている間に数日が過ぎた。その間もストレスは溜まって行った。

自分なりに考えてベストだと判断した選択を、直接その仕事に関係ない上司から変更しろと言われたことがあった。金曜日の夜に電話がかかってきて、いきなり頭ごなしに否定された。しかも、周りの音を聞いているとどうやら飲んで酔っ払って電話している感じがした。自分なりに考えた判断なので、外野が口を出すなと言えればよかったんだけど、その頃の私は学習性無気力状態だったので、何も言い返せずに、その決定を覆した。その決定を覆すためには多大な労力がかかった。

当時、付き合っていた現嫁と一緒にいる時にその電話がかかって来た。電話を受けた後、悶々として、不本意ながら関係者に変更のお願いの電話をしている私を見て、現嫁がとても心配してくれた。そこで、現嫁に全てを話した。会社で高卒軍団からパワハラを受けていること。ストレス検査の結果、カウンセリングを受けろとメールを受けていることなどなど。

自分の彼女や家族に、仕事場での自分の弱さや追い込まれっぷりを見せるのは、非常に恥ずかしいし悔しい。こういう状況になったことのない人はわからないと思うが。私も自分がそうなるまでわからなかったし、想像もできなかった。

とにかく嫁に全て話して、カウセリングは受けるべきだよねという話なった。次の週に、元鬱で薬を飲んでいた先輩と出張が一緒になった。この先輩とは仲が良かったので思い切って相談して見た。カウンセリングを受けろと言われていること、職場環境が限界だと思っていることなど。

先輩からのアドバイスは、とにかく直属の上司に話して、カウンセリングを受けた方が良いとのことだった。その出張の帰り、上司を呼び出して、相談した。

相談したところ、話してくれて良かったと行って、部門長に相談してくれることになった。同時に私はカウンセリングを受けることにした。

会社が契約しているカウンセリングルームに訪問してカウンセラーと面談した。カウンセラーは少し年上くらいの女性だった。カウンセラーから色々アドバイスをもらえるのかと思っていたけど、ほとんど自分が1人で話していた。仕事の内容、人間関係、何が問題なのかなど。

パワハラを受けててつらいこと。自分に自信が持てなくなっていること。組織変更があって、パワハラの主犯格が上司になることが決まっていることなどを話した。カウンセラーからのアドバイスは、上司に相談して職場環境を変えてもらって、1ヶ月後に様子を見ましょうということになった。パワハラの主犯格の部下になりたくないことは素直に伝えるべきと言われた。

カウンセリングが終わって部門長と面談をした。仕事の負荷を減らしてもらえることになった。部署異動も変更になった。パワハラ主犯格の元ではなく、相談した現上司の部署に異動することになった。現上司の部署は営業ではなく企画的な仕事だったので、たくさん持っていたお客さんを全て手放すことになった。

自分語り14 東日本大震災の影響2

土曜日の夜に東京に帰って来て、土日はネットでニュースをずっと見ていた。月曜日に出社して工場の被災が想像以上に激しいことがわかった。私は当時大手から小規模まで膨大な数のユーザーを担当していた。震災後の2、3日は被災へのお見舞いの電話が多くてまだ優しかった。問題は、震災の衝撃が落ち着いてきて、状況が判明してからだった。

私の会社はある分野で世界シェアが非常に高い素材を扱っていた。この素材の供給が止まるといろんな最終製品のラインが止まるので、動向が注目されていた。

震災後数日してわかったのは、被災状況が激しく震災前の生産能力には戻らないことだった。つまり、部品の供給が一部滞るということだ。プレスリリースをした途端、大口ユーザーから材料を確保しろという要求が殺到した。

私の元にもユーザーや代理店から問い合わせが殺到した。工場がどうなっているのか。いつから供給が再開するのか。怒涛のように問い合わせが来て、会社に乗り込んでくるお客さんもいた。地道に信頼関係を築いて来たユーザーとの関係を壊したくないので、できるだけお客さんへの質問に答えたかった。しかし、会社の上層部から工場の情報は全く降りてこなかった。担当レベルには何も教えてもらえず、とにかくユーザーを抑えろという指令だけ与えられた。まるで実弾が飛び交っている戦場に徒手空拳で放り込まれたような感じだった。お客さんからは状況を教えろという問い合わせ、それに対して上司に状況を質問しても、何の回答も帰ってこないし、状況も教えてもらえず、何とか止めろと言われる。板挟みになりストレスがマックスになった。

今思うと、会社の上層部の考え方もわからなくはない。当時は業界で動向が注目されていた。担当レベルから情報が漏れると業界が混乱するし、供給責任を果たさないということで訴訟問題になるかもしれない、株価にも影響するかもしれない、などなど、デリケートな問題があったと思う。

とはいえ、私は現場でユーザーの矢面に立たされてだいぶ精神をやられた。材料の取り合いになり、工場も本社も大混乱していた。ある日、同じ部署のパワハラ先輩がエンドユーザーに出荷できる材料の情報を渡してしまった。その情報がエンドユーザーから私が担当していた直接顧客に流れた。私は会社の指示を守って、直接顧客に情報を流さなかったので、なぜエンドユーザーには情報を流して、自分たちには情報を流さないのだと、クレームを受けた。

その話をパワハラ先輩にして状況を確認したところ、自分はそんな情報を流していない、ふざけるなと逆ギレされた。しかし、そのパワハラ先輩の名前が出ているエンドユーザーのメールを、直接顧客から転送されており、そのメールを突きつけて自白させて謝らせた。

この経験も結構衝撃的だった。私は当時31歳でそのパワハラ先輩は40代だった。高卒なので役職にはついていなかったが、いつも偉そうにしている自分より10歳以上も年上の奴が、いざとなったら嘘をついて、逆ギレして後輩を見殺しにするんだと思うと、こんな奴のパワハラに教育だと思って耐えて来たことが馬鹿らしく感じるようになった。

そんな見捨てられるような経験が積み重なったが、震災後の非常事態でお客さんのために何とか仕事をしなければいけないという使命感もあり、ストレスを感じながらも仕事に向き合っていた。ユーザー数は多くて、さらに震災後の対応が続いており超激務だった。

震災から2ヶ月くらい経って、工場も何とか稼働して、材料確保問題も落ち着いた。その時会社がやっているメンタルヘルス診断があった。ウェブで質問に答えて数日後、テストの結果が非常に悪いので一度カウンセリングを受けろとのメールが来た。

年越し

年末に長野に移住して来て、年末年始はずっと荷ほどきや生活必需品の買い出しなど、生活準備を行なっている。荷ほどきの途中で子供と遊んだり、買い物に行ったり、子供と1日中過ごすことができている。

転職していなければ普通に年越しをしていると思うと不思議な気持ちになる。新しい土地での生活に慣れることができるかが不安だったが、今のところ生活は問題なくできそう。あとは仕事がどうなるかだ。早く仕事を始めたい。

あと車を買いたいと思っている。今は実家から持って来た車を乗っているが、子供が保育園に入れたら送り迎え用にもう一台必要になる。今まで都内に住んでいたいので全く車は必要なかった。ただ固定費が増えるだけのお荷物だと思っていたが、田舎に来たら必需品なので考えが180度変わった。

で、いろんなメーカーのサイトを見て勉強して選んでいるんだけど、これがまた面白い。2月に2人目の子供が生まれるので家族が乗れて、かつ冬はスノボ、夏は山登りやキャンプに行きたいので、山の中を走れる車が欲しいなんて考えていると、ワクワクしてくるね。

休みはあと3日なので終わるまでに、部屋を完成させて新生活に備えたい。じゃあの。

自分語り13 東日本大震災の影響

パワハラで心が折れかけていたけど、なんとか仕事をしていた。その頃の私は度重なる人格否定で自分はダメな人間なんだと思うようになっていた。今思うと心理学で言うところの学習性無気力という状態だったんだと思う。

学習性無気力(学習性無力感)とは、アメリカの心理学者のマーティン・セリグマンが発見した現象。犬に警報を鳴らしてから床から電気ショックを与える実験をする。当然犬は電気ショックが来たら床から飛び上がって隣の電気ショックのない床に移動する。そのうち電気ショックを与えなくても警報を聞いた途端に犬は隣に移動するようになる。

床から移動できないようなケージに入れると、犬は当然電気ショックから逃れられない。これを何度も繰り返すと犬は警報がなっても動かず、電気ショックを甘受するようになる。こうなった犬を自分の意思で移動できるケージに入れても、電気ショックから逃げなくなる。逃げようと思えば逃げれるのに。無気力を学習したように見える。

これは人間にも当てはまる。自分の力で環境を変えられない体験を繰り返すと、人間も学習性無気力に陥り、最終的には鬱になる。余談だけど、マーティン・セリグマン博士はこの法則を逆に利用して、学習性無力感をなくすことで鬱から患者を救う方法を考案した。

私も、度重なる否定で自分は仕事のできないバカだと思うようになってしまっていた。こうなると日々仕事をするのが辛くなるし、面白くて好きだった仕事もつまらなく感じてしまう。こんな鬱々とした日々を過ごしていた。

http://tak-h.com/archives/1128

2011年の3月11日は石川県の客先に出張だった。上司とエンジニアを乗せてレンタカーを運転していた。運転しながら仕事が面白くない、辛すぎると考えていたことをよく覚えている。

午後から打ち合わせを初めて、3時ごろに終わった。打ち合中に少し揺れたように感じたが気のせいだと思った。打ち合わせを終えて車で空港に向かう途中、エンジニアが携帯電話から家に電話をしていたがなかなか繋がらない。打ち合わせ中になんども家から電話が来ていたらしい。

田舎だから電波が悪いのかな?なんて話をしながら運転していた。上司が携帯でニュースを見ていると、東京で震度5強の大きな地震があったと言うニュースが出ていた。これが電話が繋がらない原因だと考えたが、震度5強くらいでそんなになるか疑問だった。

空港につくとロビーのテレビでニュースが流れていた。カメラは空から真っ黒な津波が地面を進んで行く映像を撮影していた。これを見て初めてただ事ではないことが起こっていると理解した。

夕方の便で羽田に帰る予定だったが、地震の影響で飛行機は次々に運行延期になっていた。私たちも自分の便が延期になったので空港で待つことにした。空港では当時付き合っていた現嫁にメールをしたがすぐには返事が返ってこなかった。友達から電話が来たけど、すぐに切れてしまった。テレビでは津波の映像が流れ続けていた。

何時間か空港で待った後、全便が欠航になると言うアナウンスがあった。アナウンスを聞いて急いで空港近辺のホテルを探して電話をしたが、どこも満室だった。空港から車で40分ほどのホテルに3部屋予約を取ることができたので、そこまでタクシーで移動することにした。

ホテルに行ってから近くの居酒屋で食事をすることにした。私たちは実際の揺れをほとんど経験していないので、まだ楽観的だった。結構楽しく飲んでいた。会社に連絡をすると、会社の人たちは交通機関が動かないため帰れなくなって、会社で一晩過ごすことになったことを知った。

工場が東北にあり地震の影響を受けていて、製品が出荷できない可能性があるとの情報もあったが、今までもトラブルで納期遅延を起こすことはあったし、今回もその程度だと思っていた。むしろ、これで仕事がなくなって新しい部署に異動できれば辛い仕事や職場から逃れられてラッキー程度に考えていた。

彼女や家族とも連絡が取れて無事を確認できて安心した。その日は酔っ払ってホテルに帰って朝までテレビでニュースを見ていた。翌朝、新聞を見ながらホテルで朝食を食べた。新聞には三陸沖が壊滅だと書いてあった。壊滅って言葉をリアルで見る日が来るなんて思っていなかった。現実ではないような気がした。

空港に朝一番に戻って、飛行機の振り替えをお願いした。しかし、朝の飛行機は埋まっていて、夕方に予約が取れた。夕方まで時間があるのでレンタカーを借りて近くの温泉に入って時間を潰した。この時もまだ余裕があったんだと思う。

夕方の便で無事に羽田に戻った。羽田から自宅のある新宿までバスで帰った。震災翌日の夜の首都高はほとんど車が走っていなかった。道にも人がいなくて東京中がゴーストタウンのようだった。

家に帰るとガスが止まっていたので、ネットで調べてガスを復旧した。部屋は物が少し落ちた程度で問題はなかった。当時はテレビを持っていなかったので、ネットでニュースをずっと流していた。確かニコニコ動画でNニュースを流していたのでずっと見ていた気がする。

自分語り12 嫁と出会って結婚した話

今の嫁と出会ったのもなかなか運命的だったと思っている。転職して当時付き合っていた彼女と遠距離恋愛になって、そのうち別れてしまった。その後、寂しくなって合コンに通いだす。実家に帰ったので、周りには高校の友達が沢山いた。高校の同級生の間で合コンが流行っていて、レギュラーメンバーは年100回以上合コンをしていた。私はサブメンバーとして合コンに参戦するようになった。

非リアな生活をしていた私はどうしても合コンの空気に馴染めなくていつも失敗していた。レギュラーメンバーはイケメンでもないのに、いつも女を持ち帰っていて、この差はなんなんだと思っていた。聞いてみるとそいつは合コンを成功させるために並並ならぬ努力をしていることがわかった。例えば、合コンメンバーで共有する合コン日誌があって、そこには毎試合のメンバー、流れ、性行率、よかった点、悪かった点が事細かに記録されている。それを100回以上積み重ねていた。

私は年間100回も合コンする気力もないし、セフレより彼女が欲しかったので、数回に一回当たればいいと思っていて、あまり探求しなかった。

2年くらい合コンに出席し続けたけど、全く彼女はできなかった。いいなと思った子が何人かいたけど、全部振られた。何度も何度も合コンで振られるともうダメだという気持ちになってきた。自分は一生彼女できないと諦め始めた頃にhttp://anond.hatelabo.jp/20080728205902を見て、自分も仙人になろうと決意した。

決意して数ヶ月後、ふと以前合コンで知り合った女の子のことを思い出した。定期的にメールで連絡を取り合ってた子だ。久しぶりとメールをしたら飲みに行こうということになって、何人かで飲みに行くことになった。合コンってやつだね。そこに来たのが今の嫁。いつのまにか結婚していた。

全てを諦めて1人で生きて行こうと思った時に結婚相手に出会う。人生とはそんなものなのかもしれないねってことを書きたかった。

転職して横浜の実家に戻って来た時は2007年だった。当時はmixiが流行ってて、mixiで同級生と久しぶりに繋がっていたりしていた。私もmixiに自分の履歴を乗せていた。ある時に小学校の同級生の女の子から連絡があった。ちょうど実家に戻ったばかりで暇だったので、同級生と会うことにした。同級生は仲の良かった友達も連れて来ていて、3人で再開した。その後もちょくちょく3人であって、合コンしたりなんかもした。

その同級生の高校時代の友達の友達が今の嫁を紹介しくれた。というわけで、いろんな偶然が重ならなければ今の嫁に会ってなかったので面白いね。

mixiをしていなければ、小学校の同級生と再開していなければ、そもそも転職してなければ、出会うことはなかった。また、合コンで消耗してもう1人で生きて仙人になろうと決意しなければ、今の嫁と結婚するような付き合いができていなかったかもしれない。逆に中途半端に彼女ができてしまったら、1人になるのが怖くて別れたくなくて妥協して結婚していたかもしれない。

準備が出来た時に時期が来るんだと思う。