いつまで大企業で消耗してんの?

転職成功までのプロセス、転職エージェントの感想、30代での転職の苦労、キャリア感、大企業から脱出する心構え、その他諸々について書いています。 新卒で専門商社(3年)→財閥系一部上場メーカー(9年)→ベンチャー

自分語り7 肝臓移植のドナーになった

時間は少し戻るけど20歳頃から父の病気が悪化して来た。慢性肝炎から肝硬変に悪化していた。一緒に住んでなかったので知らなかったが、会社に行くだけでかなり苦しくなっていたようだ。

ある日、同居していた父方の祖父から話があると呼ばれた。父親の病気が悪化していて、助かるためには肝臓を移植するしかない。自分は家を売ってでも手術費用を捻出しようと考えている。(当時の移植は保険適用外なので莫大なお金がかかった。)父親を救うためにドナーにならないかという話だった。ドナーは未成年には慣れないので私が成人するのを待って話をしたようだ。その話を聞いて父親を救うのは普通だと思っていたので、ドナーになることにした。

手術にはリスクもあるので、それから2年間本当に肝臓の機能が落ちるギリギリまで期間を引き延ばすことなり、実際手術をしたのは私が大学4回生の夏。私は22歳だった。ちょうど仲間と劇団を立ち上げて、学園祭で公演するために準備をしていた時期だった。その頃の記憶は曖昧だが、公演の準備を任せて、私は手術のために新宿の病院に入院した。

手術をしたのは8月の初旬。手術の前は緊張して眠れない人もいるらしいが、私は普通に眠った記憶がある。病室が空いていなかったので父は個室に入院していた。私も父の個室で一緒に過ごしたんだけど、どんな話をしたか覚えていない。そこでの会話が父と直接話した最後の会話だったはずなのに記憶が全くない。手術のために下剤の入った水を2Lくらい飲まなきゃいなくて、水ばかり飲んでいた。そんなことは覚えてるんだけど。

手術の時、手術室に入り麻酔をかけられて意識を失った。次目覚めた時は、言葉では表現できないほどの激痛に襲われた。腹をパックリ切られてるので当然。ICUに入れられていた。看護師に麻酔を注入するボタンを渡されて、痛かったら押してくださいと言われた。痛みで朦朧とする意識の中、そのボタンを高橋名人並みに連射してたのを覚えている。

とにかく手術跡が痛くて痛くて意識があるうちは地獄のようだった。あの痛みを思い出すと大抵のことは我慢できる。私はベットから立ち上がることができなかったけど、お見舞いに来ていた母や祖父母の話では父は順調だと言うことだった。

数日して、ベットから起き上がることができるようになって、父のお見舞いに行った。父は同じICUに入っていた。免疫抑制剤を打っているので、無菌室のようにガラスで隔離された部屋にいた。直接話をすることができなかったので、会話は筆談だった。ここでもどんな話をしたか覚えていない。

その後、数週間は順調だった。私は普通病棟に移動して、徐々に自力で歩く練習をして、回復して行った。最初は腹が痛くてベットから腹筋を使って起き上がることができなかった。ベットの上に紐をつけてもらって、それを引っ張って起き上がる練習をしていた。

1、2週間して私は退院した。実家に戻って、母と一緒に新宿の病院まで車で毎日父を見舞いに行った。8月の末頃、お見舞いに行く前の用意をしている時に病院から電話があった。電話を受けた母の話では、父に何か起こって人工呼吸器をつけたと言う話だった。状況がよくわからないのですぐに病院に駆けつけた。

病院の説明では、父は自力で呼吸ができなくなったので、麻酔で眠らせて人工呼吸器をつけたとのことだった。私の提供した肝臓は父の中でうまく成長できていなかった。

それからは地獄だった。手術後の開腹の痛みも地獄だったが、今回は精神的な地獄だった。父の容体が回復するまで家族で病院の近くの部屋を借りて泊まって看病することにした。看病といっても父は眠らされているので、我々にできることは祈ることのみだった。父を回復させて欲しいと死ぬほど祈った。心配で夜もうまく眠れなかった。最初の1、2日は問題ないけど、眠れないって言うのは徐々に精神を蝕んで行く。

毎日、午前と午後に先生が父の容態を報告してくれる。意味がわからなかったけど必死にメモした。小さな家族の待合室で先生の報告を待つ日々。回復しない父の容態。5日目くらいに限界に達して家族で外に気分転換に行くことにした。病院の近くの靖国神社にお参りにいった。ここでも父を助けて欲しいと死ぬほど祈った。

病院に帰って数時間ぶりに父の姿を見ると、別人のように体が膨れ上がっていた。どこからから出血がありそれが止まらないので、輸血をしていた。体中の血を入れ替えるくらいの量を輸血しており、その影響で体がむくんでいるそうだった。

相撲取りのように膨れ上がった父の姿を見て、もうダメなんじゃないだろうかと言う考えが生まれた。祖父は先生にもう殺してあげて欲しいと懇願していた。その後は父の臨終の知らせを待つ時間が続いた。病院の家族待合室で、横になることもできず、体は疲れ切っていて寝たくて、少しうとうとするんだけど、少しでも足音が聞こえると、看護師が父の臨終を知らせに来たのではないかと、恐ろしくなり目が覚めてしまう。体は限界で眠いのに眠れない。地獄のような時間だった。

夜中3時ごろ、家族が父の病室に呼ばれた。家族に囲まれて父は息を引き取った。その後は、病院の慰霊室にいたいが移動され、どこからかやって来た葬儀屋が葬式の説明をしてくれた。葬儀屋って明け方でも来るんだって人ごとのように考えていたのを覚えている。